何者にもなれないぼくたちは

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美術館の存続 -名古屋ボストン美術館の閉館に寄せて-

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名古屋ボストン美術館が20年の歴史に幕を閉じた。

www.chunichi.co.jp

鉄道5線が乗り入れる総合駅・金山に隣接し、米ボストン美術館の姉妹館として華々しく開館したが、反響が芳しくなく慢性的な赤字が続いていたそうだ。

閉館は名古屋ボストン以外でも、全国で相次いでいる。1970〜80年代を中心に日本各地で美術館が開館した。20年ほどの耐久年数が過ぎて改修工事に入っている美術館が多いが(東海地方では愛知県美術館や豊田市美術館、岐阜県美術館など)、閉館に踏み切る美術館も少なくない。ボストン美術館も契約の満了に合わせての閉館だ。
美術館の存続の危機に瀕し、その存在価値というか意義が問われている。

 

制度的には美術館と博物館と同じだそうだ。
博物館は幅が広く科学博物館から人類史、地学、航空など、その趣向は多岐にわたる。
英語ではその博物館らも美術館も"Museum"の一単語にまとめられている。
言われてみれば扱う対象が芸術品なのか発掘品なのか飛行機なのかが違うだけにも思える。

ただ科学や飛行機など博物館が扱う対象と違い、美術だけは何をもって「美術」とするのか、その定義が曖昧だ。
評価の高い作品からそうではない作品が世の中には有象無象あり、最初は酷評だったものが次第に評価されるというのは、美術に限らず音楽や文学などあらゆる分野で散見される。
評論家や研究者として第一線に立っている人ですら普遍的な評価を下せないのに、我々一般人が美術を見極めるのは難しいだろう。
映像作品やインスタレーションといった新しいジャンルが開拓されたり、アメリカ・ニューヨークのMoMAではAppleの製品や日本で開発された絵文字(emoji)などが収蔵されるなど、そもそもどういうものを美術品とするのかすら曖昧模糊としている。
あいちトリエンナーレやART SETOUCHIなどのように美術館という箱を飛び出し、美術館を敷石のひとつにして展開されるアートもある。

実態の掴めないもの「美術」というものが一体なんのかを問い続け、ある種の基準や新しい芸術を創出するプラットホーム的な役割が美術館にはあると考える。
ただし、そういった「美術」を定義する行為は権威的であり、権威は文化的創造の妨げになってきた歴史もある。

 

美術館の活動基盤は「調査・研究、収集・保存、展示・公開、教育・普及」である。
美術館の役割とは? | 清須市はるひ美術館 学芸員ブログ
学問の府・大学と同様に、芸術という学問を探求する象牙の塔であり、
同時に展示やワークショップを通じ、大衆に対して教育を施す場でもある。

美術によってもたらされる教育とはどういうものか。
文科省の中学校学習指導要領によると教科としての美術の目標は、「表現及び鑑賞の幅広い活動を通して,美術の創造活動の喜びを味わい美術を愛好する心情を育てるとともに,感性を豊かにし,美術の基礎的な能力を伸ばし,美術文化についての理解を深め,豊かな情操を養う。」とある。
これを引用するなら美術による教育とは「作ること・観ることを通じて、感性を豊かにし人間性を育む」ことだろう。
ともすれば豊かな色彩や美しい比率を携えた芸術品や世界を鋭く切り取った作品を鑑賞することは、人間として重要な行為であり、そういったモノを収集する美術館には一定の価値があるだろう。

 

芸術であり、学問であり、教育であるから経済と切り離すべきだ、国家ぐるみで保護すべきだという意見がある。これは大学などに対しても声高に叫ばれる意見だ。
しかしながら新自由経済の世を生きる以上、経済は切っても切れないものだし、美術館自体が経済を迎合してきたきらいがある。
前述のあいちトリエンナーレやART SETOUCHIなどのアートフェスタは町おこしとして側面があり、鳴り物入りで開かれる大規模な展覧会も商業的な色合いがある。
また市場価値の高い作品を展示することで「こんな高い絵なら素晴らしいに違いない」と、無知な我々一般人に思わせ、来場させることもできるだろう。前述のとおり一般人には優れた芸術を明確に判断することは難しく、そうした中で市場価格という身近な尺度は価値判断に大きな影響を及ぼす。

 

「美術」と定義する存在として忌避すべき権威とならないために、またマーケティングのためにも、美術館自身がどういう性質の美術館なのか、何を目的にしているのか明確にする必要があるだろう。
長い美術史があるなかでどの時代や分野を扱うのか、どういう意図に沿って作品を収集・展示をするのかを定義することは、権威としての美術館を自制する楔となる。
またマーケティングにおいて重要となるベネフィットやターゲティング、差別化などの方針となる。

 

名古屋ボストン美術館をみてみると、不平等な契約がなされ、米ボストン美術館の所蔵品をまんべんなく展示しなくてはならないなど多くの制約を抱えていた。
日本で人気が高く、ボストンが多く保有する印象派の作品を中心に展示し、集客を見込むこともできなかった。
それどころか米ボストンの膨大なコレクションを手狭なスペースに展示しなければならず、正直なところ名古屋市美術館のようにいつ行っても名古屋市美術館らしい作品が観れるという安心感や、愛知県美術館のように層の厚い見応えのある展示がみれるという印象がなく、美術館としての方向性が見えず、美術館というよりはただのギャラリーという感じすらした。

名古屋ボストン美術館では米ボストンの作品を借り受けるのみで作品を保有することもかなわず、前者の2館のように地元のアーティストの作品を収集・展示することができず、土着の美術館になることすらできなかった。実際、閉館が決まったときも惜しむ声も小さく、ぼく自身も閉館と聞いた時もすんなり受け入れられた。

もちろん美術館としての欠陥以外にも、行政的な落ち度もある。
美術館は財界が誘致を始め、ビルは再開発のため市が建設した。公立なのか私立なのか曖昧で、中日新聞によれば河村たかし名古屋市長は人ごとのような発言をし、名古屋商工会議所も運営を終え後はもう知らんとばかりの態度だそうで、いちように当事者意識が薄い。跡地も数十億をかけて改築しなければ展示施設としてしか転用できず、閉館が決定され2年経ち、とうとう閉館した今現在でも跡地活用の方策が決まっていない。


美術館は「美術」というものを考える基準やプラットホームであり、また美術は人間性を育むものである。
公共性の高いものではあるが、新自由主義な価値基準にさらされ来場者が少ない、赤字が続いているといった理由で閉館に追い込まれている。
そういった中で美術館自身が明確に自身がどういう存在であるか、誇示する必要があるだろう。
名古屋ボストン美術館は、名古屋の副都心である金山という好立地に位置し、米ボストン美術館の姉妹館というネームバリューがあったにも関わらず、閉館に至った。
文化の拠点が1つ消えてしまうのは虚しいかぎりだが、今回の一件は美術館の存続に関する示唆に富んでいると思う。
願わくばこの経験を糧に、名古屋ボストン美術館の二の舞となる美術館が出ないことを祈るばかりだ

www.nagoya-boston.or.jp

 

(最終更新 2018/10/14)